目次

1章・ビスマルクの失脚
 ①モルトケとビスマルク ②ヴィクトリア女王の長女 ③皇帝とビスマルクの確執

2章・第一次世界大戦➀オーストリアの開戦
  ①サラエヴォ事件の皇帝の受け止め方 ②ピーター・ドラッカーの父 ③オーストリア精神の高揚

3章・第一次世界大戦②オーストリア時代のヒトラー
 ①リンツの影響 ②歴史の教師 ③ワーグナーに感激 ④ウィーンの光 ⑤ウィーンの影

4章・ウィトゲンシュタインのケインズとの交友
 ①数学の哲学への興味 ②ケインズと二つのプリンキピア ③ケインズの援助

5章・トロツキーとアドラー
 ①トロツキーのウィーン亡命 ②アドラーとトロツキーらの交友 ③社会主義と心理学

1章・ビスマルクの失脚

 ドイツ統一を成した「ヴィルヘルム1世」は、左右には政治のビスマルクと軍事のモルトケという車の両車輪をなすごとくあって、奇跡的な大業をなしました。

 しかし、1888年ヴィルヘルム1世が崩御し、ヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクの追放の方向に事は進んでいきます。

■①モルトケとビスマルク■

 1888年、ヴィルヘルム1世が崩御しました。

 ヴィルヘルム1世はプロイセンの王となり、更に1866年にハプスブルク家のオーストリア帝国(フランツ・ヨーゼフ皇帝)をドイツから追放し(普墺戦争)、さらに1871年にナポレオン三世のフランスを破りついにドイツ皇帝になり「ドイツ統一」を果たした皇帝でした。

 そのヴィルヘルム1世のもとには、宰相ビスマルクと参謀長モルトケという優秀な人材がいたことが大業を成した大きな要因ともなっています。

 モルトケは、ナポレオンの撃滅スタイルを評価したクラウゼヴィッツを再評価したことなどでも有名で、包囲する事で敵を撤退でなく撃滅させる戦争スタイルのイメージもありますが、ビスマルクの巧みな外交手腕によって多正面戦争でなく常に一正面作戦で済んだことがこの方法の効果を発揮させる要因でもありました。

■②ヴィクトリア女王の長女■

 ヴィルヘルム1世の崩御後、フリードリヒ3世が即位します。

 フリードリヒ3世の妃はヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアでした。

 丁度、ヴィクトリア女王の長女はアヘン戦争のころに生まれ、ヴィクトリア女王が「香港大公女」と名付けた人でもあります。

 そのため、フリードリヒ3世は即位したものの喉頭がんにおかされ病の床にあったのですが、ヴィクトリア女王がベルリンに訪問しています。

 しかし、フリードリヒ3世は、即位後99日で亡くなってしまいます。

 そしてヴィクトリア女王の長女の息子ヴィルヘルム2世が即位するのですが、ビスマルクは即位前から生母のヴィクトリア女王の長女とヴィルヘルム2世の対立をあおり、「イギリス女」「真のドイツ継承者」の対立と位置付けて常にヴィルヘルム2世を支持してきました。

■③皇帝とビスマルクの確執■

 モルトケはヴィルヘルム2世即位を「機会に高齢のため馬に乗れないから」と言って辞任しましたが、ビスマルクは若い新帝を補佐しようとしましたが、かえってうるさがられ、追放されてしまいます。

 主な要因として、「①内政問題」と「②外政問題」にありました。

➀内政問題においては、社会主義の対処法による確執でした。

 1889年、ルール地方の鉱山で労働者のストライキが発生し、ドイツ各地の鉱山に拡大していきました。

 皇帝は労働者側に共感し、助言者たちを集めて労働者保護立法の準備を開始しました。一方でビスマルクは「自由主義ブルジョワに社会主義の恐ろしさを理解させるため」この件について国家の介入は避けるべきと主張しました。

 1890年には御前会議において皇帝派労働者保護勅令の計画を発表しましたが、ビスマルクは期限切れになった社会主義者鎮圧法を無期限に延長することを最優先にすべきであるとしてその件を先延ばしにしています。

②外政問題については、ロシアとの関り方に関してでした。

 ビスマルクは、ドイツ=オーストリア同盟の締結以来、二重の意味において困難だったロシアを、特殊の友好条約、いわゆる背後保障条約によってドイツに結びつけようと試みました。その主要目的は、ロシアが公然たる反ドイツ政策へ方向転換するのを阻止する事にありました。

 しかし、ヴィルヘルム2世はモルトケ後の参謀長アルフレート・フォン・ヴァルダーゼとともにロシアとの条約に反対し、ここでもまた政治的問題の取り扱いに関する意見の相違を条件づけました。

 こうしてビスマルクは1890年に失脚します。

 1888年にヴィルヘルム1世が死んでから10年以内に、フリードリヒ3世、モルトケ、ビスマルクと、建国の苦労をした人たちが四人も次々とこの世を去り、いわば29歳の皇帝ヴェルヘルム2世だけとような状況になってしまいました。

※『ドイツ参謀本部』渡辺昇一・中公新書1974.12.20 、『学研まんがNEW世界の歴史9』近藤二郎監修・学研プラス2016.2、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF ウィキペディア2021.07.20閲覧、『獨逸史』上原(訳)・日本評論社1941.10.1 参照

2章・第一次世界大戦➀オーストリアの開戦

 ヴィルヘルム1世のもと宰相のビスマルクと参謀長のモルトケらの活躍によって、1866年普墺戦争によってオーストリア帝国をドイツ本国から締め出しました。

 そしてオーストリア帝国の統治者皇帝フランツ・ヨーゼフ(ハプスブルク王朝)は、自らの一家の権力を維持できる限度の内ならば、帝国の民主化にも賛成しようし、民族運動に呈しても相当の譲歩をしよう、という態度を取りました。

 その考えからドイツ本国を退いたオーストリア帝国は、オーストリア=ハンガリー二重帝国となり、ハンガリーと共同統治をすると共に他民族を抱え認める(少なくとも皇帝は)国となりました。

 しかし、オーストリア=ハンガリー二重帝国の統治のあり方に疑問を持っていた勢力は多くいたようです。そして、この疑問が第一次世界大戦においてオーストリアが宣戦布告をした一つの要因にもなっているようです。

■①サラエヴォ事件の皇帝の受け止め方■

 オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフの甥にあたる皇太子のフランツ・フェルディナンドが1914年6月28日サラエヴォを訪問中、セルビア人の青年(本当は反オーストリアの秘密結社による)に暗殺されました。

 ただこの報告を受けて皇帝フランツ・ヨーゼフは、王朝継承者たるフランツ・フェルディナンド大公が貴賤結婚を成して王朝の義務に反したことに対して、神が天罰を下したのだと見なしたとも言われています。

 皇太子のフランツ・フェルディナンドは1900年身分の低い女性と結婚する貴賤結婚をフランツ・ヨーゼフの反対を押し切ってしました。そのことを、フランツ・ヨーゼフはこのときまで認め切れていなかったということなのかもしれません。

 皇帝フランツ・ヨーゼフはこのときまで、多くの大切な人を失ってきました。1889年には息子のルードルフが謎の自殺を遂げる「マイヤーリングの悲劇」が起こっていました。また1898年には皇妃のエリーザベトがジュネーブのレマン湖のほとりで暗殺されました。

 そのためもあってか、この時期のフランツ・ヨーゼフは失う事には抗わず、失う過程に意味を見出そうとしている側面があるように感じます。同様に、フェルディナンド皇太子の死を受け止めようとしたのかもしれません。

■②ピーター・ドラッカーの父■

 いくら皇太子の死に天罰を感じたとしても、王朝の体面を守るためには皇位継承者を殺されてだまっているわけにはいかず、ついにセルビアに宣戦布告します。

 このとき、マネジメントの発明で有名なピーター・ドラッカーの父アドルフ・ドラッカーがオーストリア=ハンガリー二重帝国の経済省に勤めていました。 アドルフ・ドラッカーは家族と共にアドリア海で休暇を楽しもうと目的地につきましたが、そのときそのニュースが飛び込んできました。

 アドルフ・ドラッカーのもとには早くウィーンに戻って戦争の流れを押しとどめてほしいという電報が同僚から届いたようです。オーストリアが報復に乗り出せば、争いはバルカン半島にとどまらず、欧州全土に拡大する危険性あったためだと思われます。

 他にもリベラルな平和主義者として知られる一部の高級官僚たちは、大臣や政治家の説得に自ら乗り出したり、並みいる廷臣の壁を突き抜けて年老いた皇帝に直訴しようと試みたりして、破局を回避しようとしたようです。

 しかし、その願いはかないませんでした。

■③オーストリア精神の高揚■

 おそらく皇帝にとっては体面を守るために開戦を決めたのだと思うのですが、この開戦を後押ししたのは、ドイツ政府(おそらくドイツ精神昂揚のための外国勢力の排除のためのきっかけとして開戦支持)と、参謀長フランツ・フォン・コンラート・ヘッツェンドルフなどのオーストリア帝国の立場を強める主張が強く働いたと思われます。

 コンラートは、1906年に皇太子フランツ・フェルディナンドによって推薦され参謀総長になりました。その後一時更迭されますが、1912年のバルカン戦争で緊迫する情勢を受け、またフェルディナンドによって推挙を受け復職しました つまり、皇太子の息のかかった人物で、皇太子と同様な考えを持っている面がありました。

 皇帝フランツ・ヨーゼフは穏便主義に徹し、他国と無用な争いをせぬように配慮していました。また自分の帝国内に対しても他民族をみとめて、ハンガリーとの二重帝国を認めたのも皇帝自身でした。

 しかし、皇太子のフェルディナントはオーストリア精神の高揚に努め、外国勢力の排除を高らかに宣言していました。また二重帝国でのハンガリーの立場を弱めたいと考えていました。

 コンラートもそのように考えていたようです。ただコンラートは二重帝国でハンガリーの立場を弱めるためにセルビアを自帝国に併合することで、三重帝国となることでハンガリーの比重を下げられるとまで考えていました。フェルディナント自身はセルビアの併合は慎重であり、コンラートなどの軍部強硬派を諫めていたほどのようです。 しかし、皇太子が暗殺されることで、結果的にコンラートの筋書き通りに事が進められる道が開かれる結果となりました。

 コンラート自身は、セルビアに対する予防戦争(先制して発動する戦争)の主唱者となり、オーストリア=ハンガリー二重帝国の参謀長としてセルビアの攻略に乗り出し、第一次世界大戦のはじまりとなっていきます。

※『アドルフ・ヒトラー』村瀬興雄1977.8.25中公新書、https://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3… ウィキペディア2021.7.22閲覧、『ドラッカー』ジャック・ビーティ(訳)平野誠一・1998.4.16・ダイアモンド社、https://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3… ウィキペディア2021.7.22閲覧、『ハプフブルク家』江村洋・1990.8.20講談社現代新書 参照

3章・第一次世界大戦②オーストリア時代のヒトラー

アドルフ・ヒトラーは、第一次世界大戦に兵士として参加する前までは、絵を売ることで収入を得ていました。


そして、ドイツが開戦するという知らせを聞いて、参戦従軍しようという決意を固めました。


ただその決意は、彼が多くの期間過ごしてきたオーストリアで起こっていたムードと、その中で生きることで影響を受ける中で、暗中模索の状態で、選択した行動のようです。

■①リンツの影響■

1900年11歳のとき、リンツの実科学校に通っています。その実科学校には二学年上にウィトゲンシュタインもいました。

 リンツの実科学校に通っている中、父親のアイロスは死去し、さらに成績不良からシュタイルの実科学校に1904年には転校しています。しかし、翌年には実科学校を体調不良の理由で退学し、寡婦となった母がいるリンツに戻っています。

 リンツは1882年にリンツ綱領というドイツ系民族運動の綱領が発表された地でもありました。ドイツ民族主義の中心地ともなっていました。

 当時のオーストリアはオーストリア=ハンガリー二重帝国となっていて、オーストリア帝国とハンガリー帝国が軍事や政治・財政など共有して統治している帝国であり、多民族がいる国家でした。

 当初は帝国をおさめるドイツ系貴族であるハプスブルク王朝のドイツ系民族が資本や権力などで優位であったのですが、ボヘミア・モラヴィア・などチェコ居住地における民族的生活が急激に発展し、チェコ民族の資本や中産階級の台頭をもたらし、ドイツ系民族の地位を脅かすようになっていたのです。また帝国の資本主義経済の発展により新たな産業がもとめられドイツ系民族の伝統的な中産階級の稼ぎが悪くなり生活が困難になってきたことも影響しました。


 こうした中で、ドイツ系民族の優位を保つために、オーストリア=ハンガリー二重帝国の統治体制を考え直そうとして考案されたのが1882年の「リンツ綱領」でした。

 それから10年以上経っていますが、リンツはドイツ民族主義の中心地であり、ヒトラーも多少は影響を受けた部分があると考えられるようです。

■②歴史の教師■

 またリンツの実科学校で歴史の教師だったレオポルト・ベッチュから「汎スラヴ主義」に対して「汎ゲルマン主義」としてのドイツの民族意識に影響を受けたとも考えられる側面があります。


 レオポルト・ベッチュは最初の教職に就いたのは、現在のスロヴェニアにあたるマルボルでした。そこの地元のスラヴ人は自らを、スロヴェキアからロシア、ブルガリアからポーランドを結ぶ、より大きな国民運動(「汎スラヴ主義」)の一部と見なしていて、その危機としてドイツ系民族として「汎ゲルマン主義」を強く意識する機会に巡り合ったようです。


 その影響が彼にある程度影響を及ぼしたようです。


 この「汎スラヴ主義」と「汎ゲルマン主義」は、ロシアvsオーストリア・ドイツの争いとなり、特にバルカン半島でこの対立が顕著になります。1904年の日露戦争にロシアが負け満州進出が断念すると、このバルカン半島での対立がより激しくなり、第一次世界大戦の要因(緒戦は、セルビアはスラヴ系で、オーストリアとロシアの戦争になった)にもなります。


 ドイツ民族主義は、ある意味では「大ドイツ主義」というドイツとオーストリアのドイツ系民族が連帯する考えになりオーストラリア=ハンガリー二重帝国の崩壊につながる考えにもなりがちですが、かならずしもそうでなかったようです。ヒトラーの父のアイロスは官吏であったため大ドイツ主義は嫌っていたともいわれています(それが故に反発してヒトラーが大ドイツ主義的な考えになったともいわれることもあります)。

■③ワーグナーに感激■

 またリンツの実科学校の12歳(1901年)のとき、リンツのオペラ劇場で初めてワーグナーが作った『ローエングリン』を観たようです(後にウィーン滞在時には10回近くも観劇)。そしてシュタイルの実科学校に転校した1904年にリンツのオペラ劇場で後にヒトラーの青年期の貴重な証言者となる友人クビツェクと偶然知り合います。


 実科学校を退学し母のすねをかじっていた中、ウィーンに一か月以上過ごした1906年5月にはウィーンの宮廷劇場で『トリスタンとイゾルデ』、『さまよえるオランダ人』などを観ました。特に『トリスタンとイゾルデ』はその後40回ではきかないほど鑑賞するほど感銘を受けたようです。


 また同年、ウィーンから帰郷後の11月、クビツェクとリンツのオペラ劇場で『リエンツィ』を見ています。このとき彼が将来芸術家を越えて、「政治家」「民族の解放者」になりたいと考え始めたともいわれています。


 ワーグナーはすでに亡くなっていましたが、ウィーンの宮廷劇場での独特な名指揮で人気の絶頂にあったマーラーの演奏など、多く上演されていたようです。因みにこのマーラーの舞台美術を担当したアルフレット・ローラーのもとに、1907年ウィーン美術アカデミーを受験し失敗した後紹介を受けて3度ほど訪ねています。

 アルフレット・ローラーは1897年クリムトらと共に「ウィーン分離派」となる組織を共同設立し、更に翌年の分離派の機関誌「ヴェール・サクルム」で表紙を描いています。ヒトラーとローラーは関係構築には繋がりませんでしたが、クリムトなど当時の新潮流と繋がる可能性がありました(因みに美術アカデミーにはヒトラー受験の前年クリムトの弟子となるエゴンシーレが受かったりしています)。

 ローラーは、ウィーン分離派に参加後、マーラーに舞台美術の称賛を受け専属の美術担当となっています。そのマーラーの指揮とローラーの装飾による「ワーグナー」をヒトラーは宮廷劇場でウィーン滞在時(1907・1908年)観劇し、感動しています。その影響から『ローエングリン』や『ニュンベルクのマイスタージンガー』の作品の多くの部分を暗唱するほどまでなったようです。ただし、あくまで観客としてで終わってしまったようです。


 ワーグナーは、啓蒙など「理性の時代」の反動から詩人や芸術家の情熱や創造性の中で人間の精神を解放し、特にドイツとドイツ語の存在感を示したゲーテなどの「ロマン主義」の延長にあります。ワーグナーは古い民間伝承を題材としてゲルマン人の世界などを表現しドイツ的なものを表現すると共に、時代を遡った反ユダヤ人的な表現もしています(ワーグナーが作曲家となった当初にユダヤ人に支配されたドイツの音楽界を目の当たりした頃から偏見をもっていたようです)。


 もっとも当時のヒトラーは反ユダヤ的な発言はしておらず確固としての影響ではないのですが、ワーグナーを見ることはドイツ民族の意識と反ユダヤ的な意識の影響が多少はあったと思います。

■④ウィーンの光■

 ヒトラーは1906年にシュタイルの実科学校を退学し後母のすねをかじりながら生まれて初めてウィーンに行き、1ヵ月以上過ごしました。その後、1907年秋にウィーン美術アカデミーの受験を決意し、再度ウィーンへ出かけます。受験に落ちた後もローラーを訪ねたりウィーンでの生活を続けますが母の乳癌が悪化し11月には帰郷します。そして母が亡くなり、遺産を相続し後、1908年2月に3度目のウィーン滞在を始めます(1913年5月まで)。

 このときは、すぐ後に友人のクビツェクも音楽学校に入学するためウィーンに向かい、ヒトラーと同居しています。このときヒトラーもウィーン美術アカデミーの二回目の受験で受かることを考えていたようで、食費は節約したものの奮発してクビツェクとともにウィーン宮廷劇場で何度も観劇しました。


当時のウィーンのオペラはヨーロッパ最高を誇ると言われていました。


 また、一度目の美術アカデミーを落ちた際、絵画よりも建築家としての才能があると指摘され、建築学や建築史、またウィーンの建築を多くみて学んだり、絵を描いたり自分のなかでリンツの設計なども考えたようです。

 クビツェクに対しては驚くほどの建築や様式の知識があることを披露し、さらに後々総統になってからもその気持ちは忘れず建築学、建築史、建築に関する専門用語に通じていたようです。


 このようにウィーン美術アカデミーを二回目失敗するまでは、ウィーンの光の部分を十分に堪能したようです。

■⑤ウィーンの影■

 1908年9月、再びウィーン美術アカデミーを受けるものの今度は一次試験で落ちてしまいます。友人クビツェクは前月から軍役で一時帰郷していたのですが、クビツェクに対して劣等感のようなものを感じてしまい、さらに兵役忌避の考えもあり、姿をくらまします。

 遺産の相続や孤児給付金などがありお金はそこそこあったのですが、兵役を忌避するためにも住所不定にする必要があり、ついには1909年11月末には浮浪者収容所にまで辿り着きます。お金はあったようですが節約家な面もあり、この選択になったようです。

 その後、色々あり兵役忌避のため隠れる必要が一時的になくなり1910年には「メルデマン男子寮」という公営の独身者合宿所に移りました。ここは公営の為非常に破格で暮らす場所と食と清潔で秩序ある生活が送れるため、節約家のヒトラーの願いにも適っていたのだと思います。

 このときから、水彩画など絵を売るようになり、売れ行きは悪くない所まで行き、秋ごろから自活の道を見出し次第に政治問題について考えをめぐらすようになり、雑多ではありましたが読書の時間も多く持ったようです。

 このときの経験はウイーンの闇の部分を体感する経験になったようです。

 まず浮浪収容所などで多くのユダヤ人と会ったというところが、「ウィーンのユダヤ人問題」と接点を感じたようです。

 オーストリアの産業革命が進行し、各地方の土着諸民族の中産階級と資本家が成長するにつれ、これまで中産階級や資本家の役割を代行してきたユダヤ人は、しだいに活動の地盤をほり崩されました。また1881年医はロシア皇帝アレクサンドル二世が革命家の爆弾によって暗殺されたのちにロシアにユダヤ人迫害の大波が襲い中部ヨーロッパに群れをなしてなだれ込み、貧困化したユダヤ人がウィーンに殺到して19世紀後半からウィーンでのユダヤ人の人口は急増していました。また急増と共に犯罪統計のユダヤ人の比率が非常に高く、さらに高利をとって他人を破滅させたり破産された罪で罰せられたものも多く、中部・東部ヨーロッパでユダヤ人がきらわれた原因の一つになったようです。

 またオーストリアおいて産業革命が進むと共にウィーンおける浮浪者などの人口も急増し、ユダヤ人の成功者や高利貸しにたいする反感が大きかったようです。

 このような状況を体感したため、読書などから当時10年近くウィーン市長職についていたカール・ルエーガー(1844-1910)の影響があったと指摘されることもあります。彼は民主主義発展期のオーストリアにおける政治運動が身分の高い貴族や富裕な市民によって担われていたのに対し、はじめて民衆を政治活動に巻き込み、現実の政治や大資本家の支配にたいする反感を社会主義ではなく、キリスト教的、民族主義的、保守的運動に高めることに成功した政治家です。

 ルエーガーは一部の資本家ユダヤ人に対する非難をしていて、発言はなかったものの当時のヒトラーはユダヤ人全般ではなく当時は資本家のユダヤ人に対して特に反感を持っていたようです。

 また、当時はすでに汎ゲルマン主義政治運動から退いていたもののゲオルク・リッター・フォン・シェーネラーにも影響を受けていたとも言われます。

 オーストリア・ハンガリー二重帝国の衰退を憂慮し、オーストリアの救済をドイツと結びついた「汎ゲルマン主義」よって実現しようとした人です。王朝に対する糾弾は広く一般には支持を得られなかったものの、小農民、貧民、労働者に対する彼の一貫した支援支持は、多くの大衆の共鳴を得ていたようです。

 シェーネラーはユダヤ大資本に対する攻撃と、ユダヤ人対する人種的反感(汎ゲルマン主義の考えからもあって)も持っていて、ヒトラーは当時影の部分でもユダヤ人の関りを多く持つ機会も多く、明確な反感ではなかったものの、良い意味でも悪い意味でも違和感のようなものをもっていて、影響を受けた側面があったようです。


、、、以上のような、オーストリア・ハンガリー二重帝国に胎動していた流れが、ヒトラーを第一次世界大戦において参戦従軍の方向性を作り、さらにオーストリア・ハンガリー二重帝国自体が第一次世界大戦の火蓋を切った要因の一部でもあったと考えられます。 


※『写真でたどるアドルフ・ヒトラー』マイケル・ケリガン(訳)白須清美・原書房2017.9.26、『アドルフ・ヒトラー』村瀬興雄・中央公論社新書1997.8.25、『青年ヒトラー』大澤武男・平凡新書2009.3.13、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC ウィキペディア2021.7.26閲覧 参照

4章・ウィトゲンシュタインのケインズとの交友

 1918~1919年、第一次世界大戦のときウィトゲンシュタインは従軍し、イタリアにおいて数千のオーストリア兵とともに捕虜収容所に収容されました。そこで、師のラッセルはパリの講和会議に出席していたケインズに便宜を依頼しました。


 そして、ケインズはさらにパリのイタリア全権団に依頼し、手紙で外部に連絡できる特権をウィトゲンシュタイにみとめてもらい、ケインズとウィトゲンシュタインはふたたび連絡し合えるようになったといいます。

 その際、ラッセルの『数理哲学序説』はケインズの名でウィトゲンシュタインに送られ、されにウィトゲンシュタインの有名な『論理哲学論考』の草稿がラッセルの手元に送られました。

■①数学の哲学への興味■

 ウィトゲンシュタインはマンチェスター大学で航空工学の研究をして、ジェットエンジンの推力によって回転するプロペラの設計に携わり、特許を得たりしていました。


 当初はポルツマンの講演集を読んで(継続飛行の可能性としてプロペラを説く)飛行機の制作に関心を抱いていたが、それがエンジン製造への関心へと変わり、さらにはプロペラ設計へと興味の対象が移ったあと、この問題の数学的解決に没頭するようになって、ついには数学の基礎に関心を寄せるようになりました。


 そして、現代の数学論理学の祖といわれるゴットロープ・フレーゲのもとで短期間学ぶ中で、フレーゲの紹介などがあり国際的に有名な論理学者でもあるバートランド・ラッセルに教えを受けようと考え、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで教鞭をとるラッセルのもとを1911年の秋に訪ねました。

■②ケインズと二つのプリンキピア■

 そしてウィトゲンシュタインは1912年にトリニティ・カレッジに入学を認められ、そこで行われていたグループ「ケンブリッジ使徒会(Cambridge Apostles、懇話協会とも)」と「モラル・サイエンス」にウィトゲンシュタインは参加しました。


 「ケンブリッジ使徒会」は『プリンキピア・エティカ』と『プリンキピア・マテマティカ』(ラッセルの著作)は基本的業績であり、それぞれの領域で新しい時代を画するものと目されていた集まりで、ケインズが参加していました。

 ラッセルは運営に最も携わっていたケインズを、ウィトゲンシュタインに紹介しました。


 ケインズはこの頃は、インド通貨委員会での功績により、イギリス政府内で名を成していて、彼は発足したばかりの経済学の部局の講師として、同時に自分の非公式経済クラブを通して、大きな影響力を行使していました。そして上記の二つの『プリンキピア』の影響化に、『確率論』の最初の草案を書き上げつつあったと言います。

 そのため、「使徒会」にも参加していたのかと思われます。

■③ケインズの援助■

 ケインズは、抜群の勢力と資産を持った管理者兼実業家でもありました。そして自分に関心のあるあらゆる領域で、彼は最上のものに対する本能、鑑識家の習性を持っていました。そのため、ウィトゲンシュタインに魅了されたようです。


 ケインズは、いったん友人になると、その業績や考え方に対するケインズの関心によって、あるいは実務的な仕方で、友人たちは援助され昇進していったといいます。

  ウィトゲンシュタインも多くの援助をケインズから受けています。


 1914年に第一次世界大戦に参加したウィトゲンシュタインが捕虜になり収容所にいた際、ケインズはケンブリッジのメンバーなどと連絡が取れるよう連絡網を組織しました。 そして、1925年にはウィトゲンシュタインの再訪英を可能にし、1929年には一度辞めていた哲学を再開しようと考えたウィトゲンシュタインをケンブリッジ大学に呼び戻しました。1935年にはソ連との仲介役を務め、1938年国籍問題について助言を与え、1939年ウィトゲンシュタインを教授に昇進させるための選考会では最も積極的でした。

 ケインズは一種のマネージャー的であったともいいます。


 また、ケインズの父は大学の学籍担当事務長であり『形式論理学』(三段論法について最良にして専門的な研究書)について、ウィトゲンシュタインが助言を与えたりもした関係もあって交友が深まったのかもしれません。


 またケンブリッジ大学には「モラル・サイエンス」というクラブもあり、ラッセルやケインズもモラル・サイエンスのスタッフであったようです。そして、ウィトゲンシュタインも参加しています。


 余談ですが、この「モラル・サイエンス」というクラブは約30年後カール・ポパーとの「火かき棒事件」の場ともなります。

  また、当時のジュニアフェローにはビタミンの発見者の一人とも称されるゴーランド・ホプキンズもいます。


※『ウィトゲンシュタイン評伝』ブライアン・マクギネス(訳)藤本隆志・法政大学出版局・1994.11、『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』デウィッド・エドモンズ&ジョン・エーティナウ(訳)二木麻里・筑摩書房・2003.1、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3 ウィキペディア2021.7.28閲覧 参照

5章・トロツキーとアドラー

 トロツキーはアドラーからウィーンにおいて精神分析を学びました。

■①トロツキーのウィーン亡命■

 トロツキーは1905年の血の日曜日以来の政治変動以降、地下活動に入りサンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となり、ロシア全土のゼネラル・ストライキに参加するも逮捕され、シベリアへの終身刑を宣告されましたが、1907年10月オーストリアのウィーンに亡命しました。

 そして、亡命者の新聞である『プラウダ』の編集にあたっていました。

 その編集を手伝ったアドルフ・ヨッフェは、ウィーンにおいてトロツキーと親しくなった人でした。また、ヨッフェはアルフレット・アドラーから薬と精神分析に学んでいたといいます。

■②アドラーとトロツキーらの交友■

 ヨッフェは病気にかかった関係で(おそらく治療のため)モルヒネ中毒になり、鬱で苦しんでいました。

 このためアルフレッド・アドラーに専門の治療を受けることを求めたようです。

 それからアドラーから精神分析を学ぶようになり、その関係でトロツキーもアドラーとの交友が始まったようです。

 1909年までにトロツキー家とアドラー家は主として二人の妻の間の友情を通じて親しく交わったようです。

 また当時、アドラーはオーストリア社会民主党に所属していた一人の会員で、またトロツキーもオーストリア社会民主党の活動に参加していました。

 トロツキーはアドラーの心理学説を非常におもしろいと思ったようです。また、アドラー自身、感情的にもろいヨッフェへの治療では、彼の能力を引き出し、自身を増し、特に社会主義革命を支援すべく使命感を与えたようです。

■③社会主義と心理学■

 アドラーは1909年3月にウィーン精神分析協会で「マルクス主義の心理学」と題する発表をしようという気になったようです。

 プロレタリアートの「階級意識」はつねに心理学的には辱めや面目を失う事に対する本能的な感受性と結びついています。後にアドラーは、神経症においては攻撃欲求は抑圧されているが、「階級意識がそれを解放する。マルクスは文明の意味に従って、すなわち、圧迫と搾取の真の原因を把握することで、そして適切な[政治]組織によって、どのように[攻撃欲求が]満たされるかを示している」と主張しようとしました。そしてアドラーは、「マルクスの功績は歴史を自覚的なものにすべく訴えることで完遂される」と発表を締めくくる予定でした。

 しかし、フロイトは感銘を受けなかったため、アドラーのこの発表はなされることがなったようです。

 このような事をみると、アドラーは当時沸騰していた政治運動から一線を画していたようですが、心理学によって昇華しようともしていたとも考えまれます。

 

 ただ、その後、協会にはアドラーの社会主義仲間が入ってきたようです。

 そしてアドラーはフロイトと意見が異なることから、自由精神分析協会を設立します。そして第一次世界大戦では1916年から軍医として参加します。

 またトロツキーは1917年ロシア二月革命が起ると、帰国して革命運動に参加します。

『アドラーの生涯』エドワード・ホフマン(訳)岸見一郎・金子書房・2005.8.29 参照

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